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大阪地方裁判所 昭和63年(タ)1号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  原告と被告とを離婚する。

二  原告と被告との間の長男一郎、二男二郎の親権者を原告と定める。

第二  事案の概要

一  原告(昭和二二年七月二一日生)と被告(昭和二三年三月二〇日生)は、昭和四七年一一月九日婚姻の届出をした夫婦であり、その間に長男一郎(昭和四八年八月七日生)、二男二郎(昭和五〇年五月三〇日生)がある(〈証拠〉)。

二  原告は、離婚原因として、被告は、エホバの証人を強く信仰し、仏教儀式や多くの日本人の生活慣習を徹底的に忌避したため、原告はこれに堪え難い違和感を感じ、そのため昭和五七年一〇月から別居状態が続いており、原被告間の婚姻関係は破綻していると主張した。これに対して、被告は、夫婦間においても、その協力義務の履行や婚姻生活の維持を阻害するようなものではない限り、信教、宗教活動の自由は尊重されるべきであり、被告の信仰が原告の信条に反するという理由だけで離婚を請求することは許されない、と主張した。

第三  判断

一  証拠(〈証拠〉)及び弁論の全趣旨によれば、次のとおり認められる。

(一)  原告と被告は、いずれもA化工株式会社の従業員であったが、社内で知り合って恋愛結婚し、原告の母ハナ子と同居するようになり、被告は専業主婦となった。なお、ハナ子は、創価学会の信徒であった。

(二)  被告は、昭和五五年ころからキリスト教の一派であるエホバの証人の伝道者の話しを聞くようになり、次第にこれに感化されて自らも聖書の勉強をし、そのうち一週間に一時間程度定期的に伝道者とともに聖書の勉強をしたり、更に月に一度その集会にも参加するようになった。

(三)  被告は、エホバの証人を信仰するようになってから、自宅にある仏壇に手を合わせたり、花を供えたりしなくなり、また、正月の初詣や盆、彼岸の際の墓参りにも原告が誘っても同行しなくなった。ただ、被告は、仏壇の花器の水を替えることは拒否せずにこれを行ったし、また、原告やハナ子がこれらのことをするのを非難したり、妨害するようなこともなかった。そして、被告は、夜間の集会や伝道活動には参加せず、日常の家事や子供の養育にはできるだけ支障がないように配慮していた。

(四)  原告とハナ子は、昭和五七年九月ころ、被告とその信仰問題について話し合い、エホバの証人を信仰しているから先祖崇拝はしないと被告が言うのを聞いて、これでは原告の先祖の位牌や墓を守ってもらうことができず、被告は原告の妻として相応しくないと考え、被告との間で深刻な対立状態になった。その結果、ハナ子が被告と一緒に住みたくないと言い出したため、一時は、原、被告が社宅に引越してハナ子と別居するとの話しも出たが、原告がハナ子との同居を希望したのでそれは取りやめになった。

(五)  その後もハナ子及び原告は、被告の信仰問題について再三問い詰め、被告が曖昧な態度をとると、エホバを取るか原告を取るかどちらか一方にしろと執拗に追及した。そして、原告が被告の両親にも事情を訴えたため、被告は、両親からも信仰をやめるように強く説得された。そこで、被告は、一旦は「聖書は学ばない」と言い、更に、原告から二度と聖書を学ばないあかしとして求められるまま、原告が用意した離婚届の用紙に署名、押印したが、結局、エホバの証人に対する信仰をやめることはできず、また、原告と離婚する意思もなかった。

(六)  被告は、同年一〇月八日ころ、ハナ子から聖書に今でも未練があるのではないかと問いただされたので、まだ迷っていると正直な気持を答えたところ、ハナ子は、立腹して別居を求め、ハナ子の電話連絡により原告方へ来た被告の両親に対し、被告を原告方に置いておくことはできないと言った。そこで、被告は、止むなく兵庫県宝塚市内の被告の実家へ戻り、以後、原告や二人の子供とは別居することになった。

(七)  原告は、同月末ころ、前記離婚届の用紙によって届出をしようとしたが、被告が不受理の申立をしていたのでできなかった。ただ、原告は、その後も、被告が信仰をやめるのなら再び同居生活をしたいという期待をもっており、被告の方も、信仰を捨てることはできないがなんとかして夫婦関係を修復したいとの気持ちを強く持っていた。そこで、原、被告は、別居後二、三年の間は、原告が被告の実家に被告を訪ねたり、被告が原告宅を訪れたりして何回も話し合いの機会をもった。被告は、昭和五八年一月実家を出て兵庫県伊丹市西野所在のアパートに一人で居住するようになったが、原告が同所を訪れて泊ったこともあった。また、被告は、原告に月に一度の割合で手紙を出し、その心境を原告に伝えた。

(八)  被告は、別居後、益々熱心にエホバの証人を信仰するようになり、昭和五九年六月三〇日ころバプテスマ(浸礼)を受け、週に三回の集会(そのうちの二回は夜間の集会)や指定された地域での布教活動にも熱心に参加するようになった。また、被告は、昭和六〇年五月ころ被告の父がクモ膜下出血のため入院した際、担当医師から手術のため輸血が必要な場合もあると言われたのに対し、信仰上の理由で輸血させることはできないと強く主張した。被告の父は、同年七月手術にも至らずに死亡したが、被告は、その葬儀の際、昭和五九年一二月に死亡した被告の母の葬儀の場合と同様、喪服を着用して参列し、火葬場へ行ったが、信仰上の理由で焼香はしなかった。

(九)  原告は、被告の父の入院の際病院にこれを見舞い、被告の母や父の葬儀にも参列したが、被告の前記のような態度を見るにつけて、また、被告と話し合っても、被告が信仰をやめることはなくむしろ益々熱心に信仰するようになったことを知り、次第に被告の態度に対する嫌悪感を深め、遂には、強い憎悪の念を抱くようになった。このため、原、被告の間は疎遠になり、現在では、ほとんど交渉がない。

(一〇)  ただし、被告は、原告とともに居住している二人の子供達とは一週間に一、二度継続的に連絡をとり合っており、子供達が信仰を捨てない被告の態度を理解し、支持していることもあって、再び原告と同居して親子ともども実体のある夫婦生活をすることを強く希望している。

二  前記認定事実によれば、次のようにいえる。

被告がエホバの証人を信仰するようになり、それが原因で夫婦間に亀裂が生じたことは明らかである。しかし、被告は、原告と同居中は一週間に約一時間の聖書の勉強会に出席した程度で、その宗教活動のために日常の家事や子供の養育を特に疎かにしたということはなく(それを認めるに足りる証拠はない。)、また、仏壇に花を供えなかったり、初詣や墓参に行かないことはあったが、原告やハナ子がこれらのことをするのを非難したり、妨害することはなく、被告としては、日常の家事や子供の養育には支障がないように相応の配慮をしていたものである。そうとすれば、原告の方でも被告の信仰の自由を尊重する寛容さをもつべきで、エホバの証人の信仰自体を全く許そうとしなかった原告には、その寛容さが著しく欠けていたといわなければならない。原告と被告とは、すでに七年間以上別居状態が続いているが、別居後二、三年の間は双方が婚姻の継続を希望して交渉が続いたこと、被告は、原告と再び実体のある婚姻生活をすることを強く願い、子供二人とも連絡をとり合っていることからすると、原告がこれまでの態度を改め、はじめから被告の信仰を禁圧するのではなく、その自由を尊重することを前提として、原告及びハナ子と被告の融和を図る積極的努力をし、被告も、婚姻生活の中でその宗教上の信条を余りにもかたくなに押し通すことなく、状況によってはこれを自制する弾力的な態度をとれば、実体のある婚姻関係を修復する余地があるものというべきである。原、被告間には、婚姻関係を継続し難い重大な事由があるとはいえない。

三  原告の請求は理由がない。

(裁判長裁判官 島田禮介 裁判官 八木良一 裁判官 下村眞美)

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